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ビースティ・ボーイズ〜すべての活動に貫かれたD.I.Y.精神

「アダムは僕にロープの結び方や、自分の好きなパンク・バンドのバッジの作り方、それからライブにこっそり入るための偽スタンプの作り方まで教えてくれたよ」 癌に冒され、2012年5月4日に47歳でこの世を去ったビースティ・ボーイズのMCAことアダム・ヤウク。彼らがその前身であるパンク・バンドを結成した14歳の当時から、アダムはグループにとって精神的支柱といえる存在だった。マイクDはこう続ける。 「彼はチベット仏教に出会う以前から、執念と信念を持ち合わせた人間だった。周りが一蹴するような奇抜なアイディアでも、彼は自分がこれだと思ったら何でもやり遂げてきた。 例えば〈Paul Revere〉(『Licenced To Ill』に収録)のビートも、僕らがスタジオでTR-808で遊んでた時に、ヤウクがふと『これ、逆回転で聞きたい』って言い出して生まれたものなんだ。その時、ランDMCのランも一緒だったけど、『こいつ、何おかしなこと言ってんだ?』って顔してたよ」 パンク・ロックで培ったD.I.Y.精神をもって、気になったことは何でも自分自身でトライし、実現させるのが彼のやり方だった。 27歳で自らのレコード会社「グランド・ロイヤル」を設立。 ルシャス・ジャクソン、ショーン・レノン、アタリ・ティーンエイジ・ライオットなど有望な若手アーティストの作品を次々と発表するだけでなく、自分たちの興味のあることだけを詰め込んだ『グランド・ロイヤル・マガジン』を発行し、アメリカのみならず世界各地のユース・カルチャーに影響を与えた。 1996年からはチベット独立支援を目的とする「チベタン・フリーダム・コンサート」のオーガナイズをスタート。 そして2002年には、アダム自身が代表を務める「オシロスコープ・ピクチャーズ」を設立。『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』や『ベルフラワー』などのインディー映画を世に送り出し、『撮られっぱなし天国』では映画監督としてもデビューしている。 「アダムと僕と、ビースティーズの初期メンバーだったジョン/バリーと一緒に、ブラック・フラッグのライブを見にペパーミントラウンジに行った時、彼は言ったんだ。『バンドやろうぜ。おまえらふたりはメンバーな』って」 14歳で友達とパンク・バンドを結成しようと思い立った時も、 27歳でグランド・ロイヤルを立ち上げた時も、 37歳でオシロ..
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ザ・フォーク・クルセダーズと加藤和彦に発見されて、新しい生命を吹き込まれた寺山修司の「戦争は知らない」

「戦争は知らない」は稀代の詩人にして劇作家、昭和が生んだ元祖マルチ・アーティストの寺山修司が、おそらくは最初に作詞を手がけた楽曲である。 幼い頃に父を戦争で亡くしている歌詞の「私」は女性だが、当然ながら作者の寺山自身が投影されている。 青森県警弘前署の刑事だった父の寺山八郎は招集されて出征した後、太平洋のセレベス島でアメーバー赤痢にかかって戦病死した。 残された母と子のもとに送られてきたのは骨壷だけ、その中に入っていたのは石ころと枯葉だった。  戦争は知らない 作詞:寺山修司 作曲:加藤ひろし  野に咲く花の名前は知らない  だけども野に咲く花が好き  帽子にいっぱい摘みゆけば  なぜか涙が 涙が出るの  戦争の日を何も知らない  だけども私に父はいない  父を想えば ああ荒野に  赤い夕陽が 夕陽が沈む 名前も知られていない野に咲くに花には、”戦で死んだ悲しい父さん ”だけでなく、同じように生命を奪われた戦死者たちの無念と、父を奪われた子どもの悲しみが託されている。 これを作曲したのは大阪のGSグループ、リンド&リンダースの加藤ヒロシである。 オリジナルのレコードで歌ったのは、大阪を地元にしていた歌手の坂本スミ子だった。 「ラテンの女王」として知られて坂本スミ子は、1961年から1965年までNHK紅白歌合戦に5年連続で出場したが、そろそろ路線変更を迫られていた。 そこで意外とも思われたフォークソング調の「戦争は知らない」に挑戦したのである。 しかし1967年2月に東芝レコードから出たシングルは、残念ながらまったく不発に終わった。 人気司会者だった栗原玲児と1966年に離婚した直後で、しかも30歳を過ぎていた坂本スミ子に、”♫ いくさ知らずで二十才になって 嫁いで母に母になるの”という歌詞はそぐわなかったのだ。 ちょうどその頃、京都のアマチュア・グループだったザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」が、関西のラジオ局から火がついて大ヒットを記録した。 すでに解散していたフォークルは中心メンバーだった北山修と加藤和彦が、1年だけの期間限定で再結成することにした。 そこからはしだのりひこを加えたトリオで、プロとして積極的に音楽活動を行ったのだ。 その活動のおかげで、埋もれかかっていた「戦争は知らない」がよみがえることになった。 19..
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ジャージー・ボーイズ〜音楽への愛に満ち溢れた「君の瞳に恋してる」

「絆」とか「友情」という言葉をよく耳にする。しかし口にするのは簡単で、実際に深刻なトラブルに見舞われた時、そんな台詞を交わした当人たちには亀裂が生じることがほとんどだ。大人の人生はそんなものだと割り切りながらも、心のどこかではあの美学を忘れられない。男性なら特に遭遇する出来事だと思う。 『ジャージー・ボーイズ』(JERSEY BOYS/2014)は、そんな忘れかけたスピリットをそっと観る者の胸に音楽と共に届けてくれる素晴らしい作品だ。ロック/ポップ史にその名を永遠に残すフォー・シーズンズの実話を基に描いたブロードウェイのロングラン・ミュージカルの映画化であり、クリント・イーストウッドが監督している。 地元を出る方法は3つ。 “軍隊に入る”。でも殺される。 “マフィアに入る”。それも殺される。 あるいは“有名になる”。 俺たちはあとの2つだった。 ニュージャージー州の貧しいエリアが物語の最初の舞台。主人公はフランキー・カステルチオ(ジョン・ロイド・ヤング)という少年。彼にはトミー・デヴィート(ビンセント・ピアッツァ)やニック・マッシ(マイケル・ロメンダ)という兄貴分の仲間がいる。彼らはバンドを組んでいて、独特のファルセットな歌声を持つフランキーに音楽や歌い方を教え込んでいた。 しかし一方でイタリア系移民の性。マフィアのボス(クリストファー・ウォーケン)とも関係があり、犯罪に手を染めたり刑務所に入ったりして、フランキーは面食らうだけだった。彼らに爽やかな歌をイメージする人も多いが、その生まれた背景は凄まじい。 その後、フランキーがヴァリと改名したり、当時無名役者だったジョー・ペシ(今や名優!)という友人から、新進気鋭のソングライターであるボブ・ゴーディオ(エリック・バーゲン)を紹介されてバンドは4人組となった。フォー・シーズンズの名は、トミーの過去の悪事が原因でオーディションに落とされたボウリング場の名前から名付けられた。 NYのブリル・ビルディングでプロデューサーのボブ・クリューとの再会をきっかけに、本格的にデビューする4人。しばらくはアイドル歌手たちのバックコーラスの仕事を続けていたが、ボブが書いた「Sherry」でいきなりナンバーワン・ヒットを飛ばしてスターとなる。「Big Girls Don’t Cry」や「Walk Like A Man」も続けて1位に..
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井上堯之が好むと好まざるとに関わらず作家としてスタートしたのは萩原健一が奮い立たせてくれたからだった

デビュー51年目を迎えた永遠のロッカー、萩原健一(ショーケン)のツアーがビルボードライブ東京で初日を迎えたのは2018年5月2日のことだった。 第1回目の公演が始まる前から、会場は静かな熱気に包まれていた。 そこに流れるBGMはすべてボブ・マーリーの曲で統一されていた。 そして「ノーウーマンノークライ」が終わったのをきっかけに場内が暗くなった。 そこに雷のSEとともに、ローリング・ストーンズの「We Love You」が爆音で響きわたる。 思い思いに黒の衣装で統一したバンド・メンバーがステージに登場し、それぞれの定位置につく。 最後に白いジャケットとパンツ、それにホワイトの靴というショーケンが落ち着いた足取りで、ステージに上がった。 この日のライブは伝説となったスーパーグループ、PYGの「自由に歩いて愛して」から始まった。 「自由に歩いて愛して」は作詞が安井かずみ、作曲したのは井上堯之である。 この心の 鎖をほどいて もう自由に 歩いて愛して 空はみんなの 愛はあなたのものになる時 今こそ ショーケンは2人のギタリストとともにギターを弾き、ときにはマラカスを振り、ハープを吹き、そしてシャウトする。 続く2曲目もまた、井上堯之の代表作ともいえる「愚か者よ」だった。 だがその日、井上堯之が77歳の生涯を終えて帰らぬ人になったことを、その会場にいる人たちはまだ知らなかった。 (2018年5月2日、敗血症のため死去) 60年代後半に活躍したGSの人気バンド、ザ・スパイダース、ザ・タイガース、ザ・テンプターズのメンバーにより結成されたロック・バンドのPYGは、1971年4月にシングル「花・太陽・雨」でレコード・デビューを果たした。 当初のメンバーは以下の6人。 沢田研二(タイガース):ボーカル 萩原健一(テンプターズ):ボーカル 井上堯之(スパイダース):ギター 大野克夫(スパイダース):キーボード 岸部修三(タイガース):ベース 大口広司(テンプターズ):ドラムス 井上堯之は「スパイダース ありがとう!」という自伝のなかで、PYGを始めた時の気持ちをこのように述べている。 よりロック的でアンチ体制的な音楽を目指してPYGはスタートしました。 それをバックで支えているのは芸能界で強大な影響力と資金を誇っていた渡辺プロです。 大船に乗ったような気持ちで私たちはレ..
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ナイト・オン・ザ・プラネット〜トム・ウェイツの歌声が心地いいジム・ジャームッシュ作品

ジム・ジャームッシュ監督の長編第5作となった『ナイト・オン・ザ・プラネット』(NIGHT ON EARTH/1992)のエンドクレジットには、トム・ウェイツの「Good Old World (Waltz) 」という曲が流れてくる。 幼い頃、月は真珠に似て 太陽は黄金のように輝いていた 大人になると 吹く風は冷たく 山々は上と下がひっくり返った 今はその世に 長いお別れを告げる時 懐かしさが 俺を引き止める もう一度チャンスを賭けたい 潮の流れに 古き良き世界に戻って 観ていて心地のいい映画だった。決して何か凄いことが起こるわけでもない。何かストーリーがあるかと言えばないだろう。人によっては「こんな映画は退屈だ」「映画じゃないよ」と言うかもしれない。でもそんなことを言う人が夢中になる映画はたぶん観たいとも思わない。真夜中に静かに一人で向き合いたい作品だ。 地球というこの星にある5つの都市の同じ夜。言葉も人種も違う5人のタクシー運転手と乗客の移動を描く。短編小説のような映画だが、オムニバスではなく、あくまでも5つの章で1本として成立する映画。 面白い仕事だと思うんだ。良い運転手になるためらはその街をよく知っていないといけない。あんな小さな空間に何時間もいるんだ。その中でいろんな人と会うが、登場人物のセリフにもあるように「15年の間に二度同じ人を乗せたことはない」。そこが面白い。きっともう二度と会わないような人と一緒にある程度の時間いるから、会話はどんなものにもなり得る。 各国の現地スタッフに協力してもらいながら、ジャームッシュは自分を含めたった6人のスタッフで各地を周って撮影した。 脚本を書いていた時から、それぞれの話のエモーショナルなリズムには配慮していた。LAは軽快に、NYはおかしく、パリは詩的に、ローマは凶暴に、ヘルシンキはブラックに。 ──ロサンゼルスの陽が沈む。夜7時過ぎ。 空港に向かってタクシーを走らせるコーキー(ウィノナ・ライダー)が次に拾った客は、映画のキャスティングエージェントとしてバリバリ働くキャリアウーマンのヴィクトリア(ジーナ・ローランズ)。行き先はビバリーヒルズだ。 ガムをくちゃくちゃ噛みながらヘビースモーカーのコーキーは、口も悪いし、化粧もしていない。それなのにヴィクトリアは話しているうちに、彼女こそが探し求めていた新人女優像だとひらめく..
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チョコレートの歌〜清志郎とチャボの出会い〜

チョコレートから始まった出会い…そして“特別な再会” 1970年代になってすぐに、二人は渋谷の音楽喫茶『青い森』で出会う。 程なくして、チャボは実に多忙な日々を過ごす事となる。 それまでバンド形体として活動していた古井戸が、フォークデュオとしてメジャーデビューし、苦手なTV番組などにも引っ張り出されながら全国を駆け回ったのだ。 その少し前にフォークトリオとしてデビューをしていた清志郎にとっても、この頃は慌ただしい時期だった。 年明け早々に、アルバム『初期のRCサクセション』を発売。 シングルカットした「ぼくの好きな先生」で、ようやくRCサクセションの名が全国で知られるようになる。 夏にシングル「キミかわいいね」、年末には「三番目に大事なもの」、そしてアルバム『楽しい夕に』と、リリースラッシュが続いた。 そんな中、清志郎はチャボとの出会いについて寄稿文(某雑誌社が特集した“古井戸・特集号”に寄せたもの)を書いた。 そこには、彼等の“友情の起源”が瑞々しく綴られていた。 二人の物語は、一つのチョコレートから始まった…。 『青い森』は一階が普通の喫茶店で、コーヒー・紅茶が90円、スパゲッティーは120円でした。チャボはよくスパゲッティーを食べてました。 地下にステージがあって、毎日3〜4グループが出演していたのですが、そのうち古井戸と、何回目かの一緒になった日、まだ客が一人もはいっていないセッティングの時に、チャボからチョコレートをもらいました。 その時はじめて、当時四人編成から三人になった古井戸と口をききました。 ほんのちょっと話しただけです。 僕達はだんだん仲良くなっていきました。 一緒に演奏したり、お互いにステージで悪口を言い合ったりするのは、とても素敵でした。 とりわけ僕とチャボは仲良くなりました。 僕はアパートを出なければならなくなったとき、ギターとちょっとした荷物をさげて、三人のところを渡り歩いていました。 仕舞にはずっとチャボのところで寝起きするようになりました。 チャボのアパートにだけお風呂があったし…僕と彼とは友達になったからです。 僕とチャボのしてきたことが、とてもよく似ていたのです。 その後、二人で一人の女のコを好きになってしまったこともありました。 [『I STAND ALONE』/仲井戸麗市〜キヨシロー寄稿文(’72)より] RCサクセション..
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コーヒーの歌〜清志郎とチャボ、珈琲色の思い出

♪『Cigarettes and Coffee(煙草とコーヒー)』/オーティス・レディング 1970年代の終わり頃、忌野清志郎率いるRCサクセションは「フォークグループ」から「ロックバンド」へと変貌を遂げようとしていた。その頃、古井戸を解散させたばかりの仲井戸“CHABO”麗市がギタリストとしてRCに参加する。 それから約30年後の2009年10月11日、チャボは特別な想いを胸に…たった独りでSHIBUYA-AXのステージに立っていた。 そして、オーティス・レディングの「Cigarettes and Coffee(煙草とコーヒー)」を会場に流しながら…こんな日記(1995年に書いたエッセイ)を朗読した。 写真/三浦麻旅子 僕はその日初めて、国立にある忌野清志郎の実家を尋ねて行くことになった。 そんなに暑すぎず、寒過ぎずの季節であったような印象が残っている。 渋谷の『青い森』で出会い、気が合い、仲良くなって、すぐに彼が僕の新宿のアパートを訪れるようになり、そして今度は僕が彼の家に招待されたんだろう。 駅の北口の改札辺りで待ち合わせをした。 清志郎は自転車で迎えに来てくれていて、僕を後部座席に座らせ、客人をもてなすべく、そよ風の中を家まで運んでくれた。 「やぁ、よく来たね」 「おぉ、ちょっと電車、遅れちゃてさぁ」 などと、何だかお互いに少し照れたりしていたかもしれない。 彼の家は、とても静かな住宅地にあった。 彼の部屋は、玄関を上がったすぐ右側にあり、その日、その部屋で僕等は、ぼんやり、でもたっぷりとホットな時間を過ごしたのであった。 彼がコーヒー・サイフォンを持ち出してきて、コーヒー豆を挽き、本格的にコーヒーを入れてくれたのには驚いた。 僕なんかコーヒーはインスタントに決まってたし、なんだかその時彼がちょっと大人っぽく見えたりした。 美味いコーヒーを飲みながら、とりとめのない話しをしたんだと思う。 確かにその時、曲を一緒に作ろうとしたことは明確に憶えている。 「こんな曲を作ろうぜ!」 「ここはこういう事を歌い込んで!」 「サビはこんな内容にしようぜ!」 などということを話し合ったのだ。 とても“特別な一日”を仲良しの友達と過ごして、僕は中央線に揺られて帰っていったのだった。 <『I STAND ALONE』/仲井戸麗市〜コーヒー・サイフォン(’95)より..
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バニシング・ポイント〜スピードに取り憑かれた男たちは、いつも人のために嘆こうとした

スピードに取り憑かれた男たちがいる。真っ先に思い出すのは、アイルトン・セナ。自動車レースの最高峰F1を「感動的な人生ドラマ」に変えた人。有名なのは、過去のチャンピオンに比べてレース中に接触回数が多すぎると“危険なドライバー”の烙印を押された時、彼は権威に対してこう言ってのけた。 レーサーであれば、そのようなリスクを負うのは当たり前だし、相手のスキをついて仕掛けなくてはレーサーの資格はない。自分は勝つために走っているのであって、ポイントを稼ぐためじゃない。反対する者もいるけど、これからも自分のやり方で走り続ける。 従来のスポーツヒーローにはない魅力を放っていたセナは、1994年5月1日に行われたサンマリノGPの決勝レースで、ポールボジションからスタートしたまま300キロ以上のスピードでコンクリートウォールに激突。それはあまりにも象徴的な死にざまであった。 また、『i-D JAPAN』の特集「疾走せよ:Road to Nowhere/クルマと自由をめぐる冒険」(1992年6月号)で、ジェームズ・ディーンやレーサーの高橋徹について触れたことがある。同特集には他にもハリー・ディーン・スタントンとジャック・ケルアック(柳下毅一郎氏)、デニス・ホッパーとスティーヴ・マックィーンとサム・シェパード(大場正明氏)、ブルース・スプリングスティーン(森田義信氏)といったように、「クルマによって加速され、自由に向かって疾走した男たち」が取り上げられていた。 ここにもう一人加えるとするなら、コワルスキーという男かもしれない。リチャード・C・サラフィアン監督によるニューシネマ『バニシング・ポイント』(Vanishing Point/1971)の、バリー・ニューマンが演じた孤独な主人公。 カリフォルニア、日曜日。午前10時2分。コワルスキーの70年型ダッジ・チャレンジャーは警察の包囲網から逃れている。コワルスキの行く先には2台のブルドーザーによるバリケード。なぜこんな事態になったのか? その2日前。コロラド州デンバー、金曜日。午後11時30分。車の陸送屋として臨時に働くコワルスキーは、休む間もなく70年型ダッジ・チャレンジャーを2000キロ以上離れたサンフランシスコまで届ける仕事を引き受ける。おまけに知人と15時間以内に届けるという無謀な賭けにも出る。その瞬間からガソリン給油以外は止まら..
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売れ始めても英雄マディ・ウォーターズの使いっ走りをやめなかったピーター・ウルフ

12歳の時、52丁目の伝説的ジャズ・クラブ「バードランド」に入り浸るようになったんだ。あの頃は18歳以上の付き添いが一人いれば、その手の店でも平気で入れた。俺はアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズ、えらくきわどい曲を歌うダイナ・ワシントン、他にもいろんなジャズ・ミュージシャンを聴いた。 1970年代にJ・ガイルズ・バンドのヴォーカリストとしてデビューし、解散後はソロ・ミュージシャンとして現在も活動を続けるピーター・ウルフは、自らの感動的なブルーズ体験の序章にそう綴った。 そこからハーレムのアポロ劇場まで水曜の夜のショウを観に行くようになるのは、ごく自然の成り行きだった。高校時代になると、あの劇場にずっと通い詰めてたよ。 ピーターはアポロ劇場の「ブルーズ大行進」というショウに出向き、そこで生まれて初めてマディ・ウォーターズを聴いた。当時はすでに都市部の黒人の若者たちの間ではブルーズは古びた音楽に過ぎなかった。その夜も「俺たちはもう綿花なんて摘んでないぞ」と、誰かが叫んでヤバイ雰囲気になっていた。あのブルーズの王様B.B.キングのステージの途中でのことだ。 しかし、マディが登場すると、場の空気は一変。「戯言はやめろ」と言い放つと、全員をブルーズに連れ戻した。出演者の中で最もいなたいサウンドを聴かせたにも関わらず、観客たちは熱狂した。マディのパワーは凄まじかった。ピーターはすっかり取り憑かれてしまった。 その後、ボストンで美術学生となったピーターは似たような趣味を持っていた仲間たちとブルーズ・バンドを組むことにした。のちにJ・ガイルズ・バンドになる面々だ。ピーターはブルーズ・ハープをマスターすべく、「ジャズ・ワークショップ」に出演していたマディを再び観に行くことになった。 マディが登場するまで、彼のバンドがステージを温める。メンバーにはジェイムズ・コットンやオーティス・スパンがいた。その夜もマディは親分らしく堂々と、しかも一分の隙もない洒落た佇まいで観客を沸かせた。 休憩に入ったセットとセットの間で、ピーターはどうすればコットンがあんなにユニークなブルーズ・ハープを吹けるのか、一緒にいた友達とどうしても秘密を探りたくなった。アンプの中に何か特殊効果があるに違いないとあたりをつけたピーターは、こっそりとステージに上がって調べ始めた。 すると、背後に何かが迫って..
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アニー・ホール〜アカデミー賞授賞式の夜、NYでクラリネットを吹いていたウディ・アレン

『アニー・ホール』から僕は監督として成熟し始めたんだ。 「ウディ・アレン」の名を知らない映画ファンはいないだろう。50年以上に及ぶキャリアと70本以上の作品で、「監督」「脚本」「俳優」として関わってきた映画作家。自ら生まれ育ったニューヨークを心から愛する人。彼の作る映画は決して驚異の興行収入を叩き出すわけではないが、それでもアカデミー賞のノミネート回数は最多を誇るし(監督賞1回、脚本賞3回受賞)、ウディ・アレン映画への出演でスターになった俳優たちはたくさんいる。そして何よりも、彼はハリウッド産業に背を向け続け、賞レースに興味がない。 ウディ・アレンは1935年12月にニューヨークのブルックリンにユダヤ系の両親の長男として生まれた。幼い頃から映画やコメディ、マジックやジャズに親しむようになり、クラリネットなどの楽器も演奏するようになった。ギャグ・ライターの仕事を得ると、ニューヨーク大学の映画学科を中退。1960年頃にはスタンダップ・コメディアンとして、自らナイトクラブの舞台に立つようになる。TVの仕事も増えて顔が売れ始めた。 1964年に脚本と出演を兼ねた『何かいいことないか小猫チャン』で映画デビュー。しかし、映画製作はいろんな連中によって作家性をメチャクチャにされるという経験から、1969年には『泥棒野郎』で監督デビューを果たす。ハチャメチャなコメディ映画を何本か撮る傍ら、ブロードウェイの戯曲や雑誌に短編小説を発表して作家性も高めていった。そして、女優ダイアン・キートンとの実生活と別離からヒントを得て作ったのが『アニー・ホール』(Annie Hall/1977)だった。 ウディ・アレンのターニング・ポイントとなったこの作品は、それまでの定番路線からコメディも含んだ独自のラブストーリーへと昇華。「映画作家ウディ・アレン」誕生のきっかけとなった。別れていたダイアン・キートンとは4回目の共演で、彼女が映画で着こなすラルフ・ローレンなどのファッション/スタイリングは「アニー・ホール・ルック」として話題にもなり、映画はアカデミー賞の作品賞・監督賞・脚本賞・主演女優賞を獲得。 特筆すべきは、ウディ・アレンが『アニー・ホール』でニューヨークの街を物語の一部として描いたことにある。ニューヨークの風景や喧騒、クラブやレストランや映画館といった場所までもが、映画の重要な要素として機能..
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アリー/スター誕生〜無名時代に応援してくれたLGBTに敬意を表したレディー・ガガ

レディー・ガガの初主演作となった『アリー/スター誕生』(A Star Is Born/2018)は、同名映画の4度目のリメイク。とはいえ、1937年のジャネット・ゲイナー版、1954年のジュディ・ガーランド版の舞台は映画界なので、1976年の前作「スター誕生〜70年代型ロックスターの愛と別れを描くバーブラ・ストライサンド主演作」がベースになっている。 きっかけは主演・初監督を務めたブラッドリー・クーパーが、メタリカのコンサートに招待されたことから始まる。ドラムセットの後ろに立たせてもらった時、その迫力に圧倒されて、この時の感動を映画にして伝えたくなったという。実際、それは本作のコンサートシーンに活かされることになった。臨場感が凄いのだ。 このコンサートシーンは、2017年のステージコーチ、コーチェラ、グラストンベリーなどのフェスで撮影された。ウィリー・ネルソンや前作で主演したクリス・クリストファーソンは自分たちの出番を譲ってくれ、その数分間でクーパーたちは実際に演奏してカメラを回した。「ブラッドリー・クーパーです。今、映画を作っています。それじゃ行きます!」 クーパーは自ら演じるカントリー・ロックのスターを、ニール・ヤングのようなギターを弾き、トム・ペティやブルース・スプリングスティーン、パール・ジャムのエディ・ヴェダーのように歌うことを意識した。 彼は私を女優として受け入れ、私は彼をミュージシャンとして受け入れた。お互いに逆のことをしてるってね。 ある日、ガガの家にクーパーがやって来た。ガガがピアノを弾き、クーパーから提案があったCCRの「ミッドナイト・スペシャル」を一緒に歌った。この時、彼女は彼の歌声が本物だと分かった。クーパーはガガにノーメイクでありのままの姿になることを勧めた。 レディー・ガガの名前を口にすると、多くの人はその奇抜なメイクやファッション、ダンスポップを思い浮かべるだろう。しかし、彼女の本当の姿はピアノを弾きながら、魂を込めて歌い上げるソングライターだ。映画ではそんな彼女の実体験が投影されている。 大学を中退して音楽活動に没頭したのが19歳。クラブやバーで演奏し始めるが、レコード会社にまったく相手にされない。外見のコンプレックス(鼻の大きさ)をネタにされ、自分が作った曲をルックスがいいという理由だけで他のシンガーに歌われそうになったこともあ..
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プリンスの足跡〜アーティストとしての“自由と権利”を守り貫いた孤高の天才

1983年。マイケル・ジャクソンが『スリラー』で世界を席巻している頃、彼と同い年の二人のアーティストが翌年迎えることになる大ブレイクを前に、その魅力をゆっくりとポップミュージックの最前線に浸透させていた。 一人はニューヨークのダンスフロアを揺るがせていたデビューしたてのマドンナ。そしてもう一人は、1982年にリリースされたアルバム『1999』やシングル「Little Red Corvette」で初のTOP10ヒットを放っていたプリンス。その妖しげなルックスと独創的なサウンドで異端扱いを受けていたプリンスだったが、開局したばかりのMTVに慣れ親しんでいた若い世代ならみんなこう思ったはずだ。「この男はきっと何かをやってくれる」「次で必ず大きく化ける」と。 プリンス・ロジャー・ネルソンは、1958年6月7日にアメリカの中西部ミネソタ州ミネアポリスで生まれた。複雑な家庭環境によって孤独な幼少時代を過ごすが、彼には音楽があった。と言ってもミネアポリスは白人の土地であり、黒人の人口比率はわずか3%。ネットやSNSなどなかった1970年代、プリンスの耳と心は自然にラジオから流れてくるロック・ミュージックを捉えていく。中でもカルロス・サンタナのギターがお気に入りだった。 1978年4月、19歳の時にアルバム『For You』でワーナーからデビュー。新人としては異例のセルフ・プロデュース権を得て、アレンジ、作詞作曲、歌、演奏すべてを一人でやってのけた(単独多重録音)。経費削減のためにシンセサイザーを活用してファルセット・ヴォイスを多用したこの作品はヒットこそしなかったものの、早熟の孤高の天才として忘れてはならない原風景だ。 その後年1枚のペースでアルバムを発表。しかし、ジャンル分けなどできない唯一無比なサウンドに加え、官能的すぎる歌詞やヴィジュアルワークは当時のメインストリームの音楽ファンには理解不能だった。1981年にローリング・ストーンズの公演の前座を2日間経験して、大ブーイングを喰らってモノを投げつけられて開始20分でステージを下りたのは有名な話だ。プリンスは屈辱に耐えられずに人知れず涙していたという。 だが、自らのバンドを“ザ・レヴォリューション”と名づけた『1999』から一気に状況が変わっていく。一部のヒップな若者たちから支持されていたプリンスは、遂に1984年『Purpl..
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愛に溢れた歌〜First Day Of My Life

♪「First Day Of My Life」/ブライト・アイズ これは僕にとって“人生の最初の日” 神様に誓うよ  僕は玄関で生まれたんだよ 雨の中に飛び出していってビーチでブランケットを広げていたら 突然何もかもが一変したんだ ブルース・スプリングスティーンも認め“ネクスト・ボブ・ディラン”と賞賛されたアメリカの若手アーティストが25歳の時に紡いだ名曲をご紹介します。 この曲のミュージックビデオは、伝説のロックミュージカル『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』の原案者でもあるジョン・キャメロン・ ミッチェル監督が手掛けたもの。 若者、中年、老人、同性愛者。 様々なカップル達、様々な人種、家族、親子。 新しい命を授かった妊婦、飼い主を想う犬、亡くした相手を想う人…。 この映像のすべてに愛が溢れている。 この歌をヘッドフォンやイヤフォンで聴いていると、ミュージックビデオの登場人物の一人になったような体験ができます♪ 思わず涙してしまいそうな“愛に溢れた歌”を、あなたなら誰と聴きたいですか? 「その歌声は傷ついた天使のようだ」とイギリスのNME誌で評された美しく繊細なメロディと詞と歌唱でボブ・ディランやニール・ヤングら、偉大なソングライターの後継者として注目を集めるブライト・アイズ。 1995年からコナー・オバースト(現在34歳)のソロプロジェクトとして活動をスタートさせ、フォーク・カントリー主体のシンプルなサウンドを“売り”としてきた彼等。 2011年からは音楽プロデューサーでもあるマイク・モギス、ネイト・ウォルコットを正式なバンドメンバーとして迎え入れて、その音楽性をさらに進化させている。 だから君に知って欲しかったんだ ずっとこういった事が続くってことを 僕は本当にのろまだけど でも、僕には君が必要だってことに気づいたんだ そして僕は家まで帰れるのかな… ネブラスカ州オマハで生まれたコナーは、13歳のときから音楽制作を始めた。 若者特有の震えるような歌声と、難解な絵画を描くような歌詞で紡がれる物語は彼の非凡な才能を証明するのに十分であり、それゆえに中期のボブ・ディランを彷彿とさせるが、それはよくあるモノマネや亜流とは全く一線を画する。 彼の創作意欲は尽きることなく、近年ではエレクトロニクスを使った実験的な側面も見せているという。 ブライト・アイズ ..
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パープル・レイン〜真のスーパースター誕生の瞬間を描いたプリンスの自伝的映画

2016年はデヴィッド・ボウイやイーグルスのグレン・フライなど大物ミュージシャンが相次いで亡くなったが、その度に彼らの過去の代表作やベスト盤を購入する人が多かったようだ。同年4月21日に亡くなったプリンスも、直後の5/7付のビルボードチャートで1位・2位・6位とTOP10に3枚も突如ランクインした。1位と6位はベスト盤で、2位が『パープル・レイン』。これはプリンスと言えば、やはり『パープル・レイン』を思い浮かべる人が多いことを証明した結果だろう。 1984年のリリース当時を思い返すと、あの衝撃の大きさは凄かった。前作『1999』によって機は熟していたことは追悼コラム「プリンスの足跡〜アーティストとしての“自由と権利”を守り貫いた孤高の天才」でも触れた通りだが、プリンスが真のスーパースターになったのは紛れもなく『パープル・レイン』。 MTV時代が本格的に幕開けてヴィジュアル性に富んだアーティストたちが増殖し、現在よりも“洋楽”が若者文化に深く浸透・作用していた1980年代。デュラン・デュランやカルチャー・クラブやワム!といったUKポップ、ヘヴィメタル勢、サントラ映画群、そしてマイケル・ジャクソンやシンディ・ローパーやマドンナらの動向を追いかけることがポップカルチャーの最先端だったあの時代。そんな頃にプリンスはあまりにも眩しくブレイクしたのだ。 ミック・ジャガーはその数年前から「プリンスがどんなに凄い奴か君らには分からないだろう」と言っていたし、デヴィッド・ボウイは「彼は今、一番気になる存在だ」とコメントした。ここで1983年と1984年のビルボード・チャートでナンバーワンを記録したアルバムを並べて、あの時代の風景を再生してみよう(数字は1位を獲得した週数) ○1983年 Business as Usual/Men at Work ⑮*前年分含む Thriller/Michael Jackson ㊲*翌年分含む Flashdance/Soundtrack ② Synchronicity/The Police ⑰ Metal Health/Quiet Riot ① Can’t Slow Down/Lionel Richie ③ ○1984年 Footloose/Soundtrack ⑩ Sports/Huey Lewis & the News ① Born in the ..
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中島みゆきの「狼になりたい」に描かれたやるせない人間模様~〈吐きすて〉の歌の系譜④

1979年にリリースされた中島みゆきのアルバム『親愛なる者へ』の収録曲に、24時間営業の飲食店を舞台にした『狼になりたい』という歌がある。 「♫ 夜明け間際の吉野屋では」と始まるこの曲を、ぼくが初めてNHKのスタジオで聴いたのはアルバムが発売になる直前だった。 歌い出しの1行目の歌詞で驚かされると同時に、心のなかで快哉をあげたことを覚えている。 日本にもついに一幕物の舞台劇、それもリアルな現実を描いて歌えるシンガー・ソングライターが登場してきたのだ。 「狼になりたい」 作詞・作曲:中島みゆき 夜明け間際の吉野屋では 化粧のはげかけたシティ・ガールと ベィビィ・フェイスの狼たち 肘をついて眠る なんとかしようと思ってたのに こんな日に限って朝が早い 兄ィ、俺の分はやく作れよ そいつよりこっちのが先だぜ 買ったばかりのアロハは どしゃ降り雨で よれよれ まぁ いいさ この女の化粧も 同じようなもんだ 狼になりたい 狼になりたい ただ一度 店内の情景描写と心象風景、そこにある鬱屈や屈折、それらを自分の心のなかで語ったり、あるいは登場人物の代わりにつぶやいたり――。 そんなことばの断片が、が中島みゆきの歌声で綴られていく。 歌詞のイメージをふくらませる石川鷹彦のアレンジは包容感と緊張感があり、サウンドも印象に残るものだった。 NHK-FMで夜の10時台にオンエアしていた「サウンドストリート」という音楽番組でオンエアすると、リスナーからハガキで「心を撃ち抜かれた」とか、「頭をぶっ叩かれたようです」といった反応が寄せられた。 向かいの席のおやじ見苦しいね ひとりぼっちで見苦しいね ビールをください ビールをください 胸がやける あんたも朝から忙しいんだろ がんばって稼ぎなよ 昼間・俺たち会ったら 互いに「いらっしゃいませ」なんてな 主人公の心の奥で溜まっていくやるせない気持ち、「みんないいことしてやがるのに‥‥」という妬みと不満――。 そんな気分を抱えたまま溜め込んで、それでも日々の暮らしを続けて生きている人々――。 人形みたいでもいいよな 笑えるやつはいいよな みんな、いいことしてやがんのにな いいことしてやがんのにな ビールはまだかぁ 唐突に「ビールはまだかぁ!」ということばが店内に響く。 吐き捨てるようなその怒声から、中島みゆきのロック・スピリッツが感..
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ジョニー・サンダース27歳〜ニューヨークパンクのカリスマがロンドンで過ごした季節

セックス・ピストルズ、クラッシュ、ガンズ&ローゼス、そして日本では忌野清志郎、甲本ヒロトなど数多くのアーティストに多大な影響を与えた孤高のカリスマ、ジョニー・サンダース。 1970年代前半ニューヨークのアンダーグラウンドシーンの中心的存在だった“ニューヨーク・ドールズ”のメンバーであり、自らが率いたバンド“ハートブレイカーズ”では、ロンドンのパンクシーンとも深く関わったアーティストである。 彼は生粋のニューヨーカーでありながら、英国のローリング・ストーンズやキンクスに憧れていた。 “ジョニー・サンダース”というステージネームは、1968年にキンクスが発表したアルバム『The Kinks are the Village Green Preservation Society』に収録されているバイク乗りのことを歌った楽曲「ジョニー・サンダー」が由来だという。 ブリティッシュロックに影響を受けて音楽を始め、それがニューヨークのパンクシーンを形づけるバンドになり、それに影響を受けたイギリスのパンクシーンに自ら身を投じていった彼。 ロックの歴史を振り返ると、アメリカとイギリスが“宿命的なキャッチボール”を続けていることがわかるのだが、彼はまさにそれを体現したアーティストだった。 ♪「You Can’t Put Your Arms Round A Memory」/ジョニー・サンダース とても寒くてホントに独りっきりなんだ ベイビーお前が家にいないからだよ これで俺が消えたところで なんてことはない…俺はやっぱり独りなのさ 1978年、彼は27歳の時にソロアルバム『SO ALONE』を発表した。 彼が遺した数多くのアルバムの中でも評価が高く、ファンの間では“最高傑作”とも言われている作品だ。 ライブ盤の多い彼のディスコグラフィーにおいて、数少ないスタジオ録音による名作として知られている。 このアルバムが発表される前年の秋に彼はハートブレイカーズを解散させる。 そして、彼はそのままロンドンに残り“ザ・リヴィング・デッド”というバンド名でイギリスやフランスで何度かライブを行うようになる。 その新バンドには、オンリー・ワンズのピーター・ペレット(G.Vo)とマイク・ケリー(Dr)、エディ&ホット・ロッズのポール・グレイ(B)とステーヴ・ニコル(Dr)、フランス人で元マニアックスのヘン..
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ビッグ・ウェンズデー〜人生で大切なものを失ったことがある人たちへ

生きていれば誰もに十代という日々があるように、生きていれば誰もが年を重ねながらその意味を少しずつ知っていく。何か大切なものを失いながら。避けがたい何かと直面しながら。それでも人は耐え、現実と向かい合って懸命に生きていこうとする。 『ビッグ・ウェンズデー』(Big Wednesday/1978)は、そんなことを教えてくれる素晴らしい物語だった。青春から人生へ。そして世代から個人へ。出逢いと別れを織り交ぜながら、一貫した友情を支えにイノセンスと美学を保とうとする登場人物たちに静かに心打たれる。これは間違ってもそのへんにあるサーフィン映画ではない。 監督/脚本のジョン・ミリアスにとって、この映画を作ることは長年の夢だった。自分が書いた脚本を勝手に変更する心ない連中から守るために監督業を始めたという彼は、サーフィンに情熱を捧げる青春ストーリーのアイデアを10年近くも温め続けた。それは自分自身の物語であり、友人たちの物語だった。『ビッグ・ウェンズデー』で描かれる出来事は実話なのだ。 主演した3人の俳優=ジャン・マイケル・ヴィンセントとウィリアム・カットとゲイリー・ビジーは子供の頃からサーフィンをしていたし、サーフィンのシーンで登場するジェリー・ロペスら現役プロサーファーたちは、プロ大会の出場を断念してまで撮影に取り組んだ。映画が素晴らしい出来栄えになることを知っていたからだろう。 1962年、夏。 西海岸カリフォルニア。とあるビーチのポイントでサーフィンに明け暮れる3人の若者たち。マット(ジャン・マイケル・ヴィンセント)、ジャック(ウィリアム・カット)、リロイ(ゲイリー・ビジー)。地元では有名な彼らは、パーティや馬鹿騒ぎには必要不可欠な存在。“今ここにいること”がすべてのように、ひと夏の青春とロマンスは綴られる。十数年に一度だけ訪れる伝説の波。何もかも押し流す壮絶な波、ビッグ・ウェンズデーを待ちわびながら。 この章で聴こえて来るのは、リトル・エヴァの「Locomotion」やシュレルズの「Will You Love Me Tomorrow」といった快適なガールポップ・ナンバーばかり(両曲ともジェリー・ゴフィン&キャロル・キングの作詞作曲)。英国のビートルズが登場する前夜だった。 1965年、秋。 そんな彼らにも、いよいよベトナム戦争の招集令状が届き始める。周囲の仲間たちが何と..
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マンハッタン〜ウディ・アレンは「音楽一つで都会の表情が変わる」ことを教えてくれた

ウディ・アレンの映画を観るといつも感じることがある。都会で暮らしていることがちょっとだけ嬉しくなるのだ。 と言ってもウディ自身が「不必要な精神問題を次々と作り出すマンハッタンの人々」と指摘しているように、その感情は自己中心的な都会人に向けてではない。いつもより深い愛着を感じてくるのは、馴染みの通りや風景といった街の表情に対してだ。 ウディ・アレンはニューヨークを強く愛する人だが、他の監督では決してロケ先に選ばないようなマンハッタンの「吐息的な場所」をフィルムに捉えるのが得意な人。 それは働く場所、遊ぶ場所、買い物する場所、飲食する場所といった種々雑多な喧騒が集まるところであってはならない。時には川沿いから、公園の舗道から、アパートの窓から、誰もいない博物館からといったように、人々が気張らなくてもいい場所から「最も都会的なショット」を映し出せるのが、映画作家ウディ・アレン最大の魅力だと思う。 その独自の姿勢はアカデミー賞の作品賞・監督賞・脚本賞を獲得した1977年の『アニー・ホール』から始まったが、「音楽一つで街の表情は変えられる」「モノクロ映画でも色が見える」ことを教えてくれたのが『マンハッタン』(Manhattan/1979)だった。 この映画ではオープニングからジョージ・ガーシュインの代名詞である「ラプソディ・イン・ブルー」が使用され、その後「サムワン・トゥ・ウォッチ・オーヴァー・ミー」「アイヴ・ガット・ア・クラッシュ・オン・ユー」「ス・ワンダフル」「エンブレイサブル・ユー」「バット・ノット・フォー・ミー」といった楽曲がふんだんに使用されている。 ウディにとってはガーシュインの音楽こそがマンハッタンの象徴だった。他にも選曲はあったはずだ。誰もが知るフランク・シナトラの歌でもいいし、当時の流行りならビリー・ジョエルだって全然構わない。だが、どれもには相応しくない。シナトラは強すぎるし、ビリーではドラマチックすぎる。 ガーシュインの音楽が永遠不滅なのは、どこを切り取っても「都会の吐息」がさり気なく聞こえてくるからだ。ウディ・アレン映画が描く世界観と相性ぴったりではないか。そしてこの組み合わせが唯一無二のマンハッタン像を作り出した。同じニューヨーク派のマーティン・スコセッシ作品と比べて、その余りの手法の違いに驚く。 『マンハッタン』は人より、街並や風景が主役の映画だ。..
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カウント・ベイシーを偲んで〜“伯爵”の愛称で親しまれた偉大なジャズミュージシャンの功績と足跡

グレン・ミラー、ベニー・グッドマン、デューク・エリントンと並びビッグバンド界を代表するバンドリーダー/ピアニストとしてジャズシーンに大きな功績を残した男、カウント・ベイシー。 ジャズ界には、キング(王様)・オリヴァー、ファッツ(太った)・ウォーラー、デューク(公爵)・エリントン、ディジー(くらくらする)・ガレスピーなど、ニックネームを公式名称として活動するミュージシャンが多い中、彼もまたカウント(Count)は伯爵を意味する愛称で親しまれていた。 彼が率いたビッグバンドの演奏は、その圧倒的なスウィング感と(あくまでもわかりやすく)洗練された音楽構成に大きな特徴があった。 そんな理由から、後に多くのジャズバンドが彼の楽団の演奏スタイルをお手本にしたと言われている。 戦前〜戦後と大衆を活気づけた日本のジャズバンドにも多大な影響を与えた存在だった。 代表作の一つである「Dinner with Friends」は、日本の人気バラエティ番組『人志松本のすべらない話』のテーマ曲として用いられている。 1904年8月21日、彼はニュージャージー州の小都市レッドバンクで生まれた。 1924年、二十歳を迎えた彼は母親から教わったピアノの腕を生かし、ブルース歌手の伴奏とソロ演奏を主にプロ活動をスタートさせる。 程なくして、たまたま仕事で訪れたミズーリ州カンザスシティで多くのジャズメンと出会うこととなる。 彼はまるで運命に導かれるようにウォルター・ペイジ率いるブルー・デビルズに参加。 1929年、25歳の時にベニー・モーテン楽団に加わる。 その6年後、リーダーのベニー・モーテンが亡くなると、自らがバンドリーダーとなりジャズオーケストラを結成する。 この頃から“カウント(伯爵)”の愛称で呼ばれるようになる。 その目覚ましい活躍と才能に目をつけたベニー・グッドマンとその友人でジャズ評論家のジョン・ハモンドに評価されたことで彼は一躍注目を集める存在となり、その後も大きな成功を納めることとなる。 途中わずかな中断期間はあったものの、半世紀近くも一流ミュージシャンを擁する自分のビッグバンドを率いて世界を回りつづける人生を送る。 そして…1984年4月26日の早朝、膵臓癌を患っていた彼はフロリダ州のハリウッドにある病院で静かに息を引き取った。享年79だった。 ──作家の村上春樹は著書の中で、カウ..
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ラウンド・ミッドナイト〜酒と煙草と真夜中のモダン・ジャズ

20世紀の幕開けと共に生まれ、それまで陽気なダンス・ミュージックだったジャズが、1940年代のビ・バップ登場によって鑑賞芸術となり、以降〜1960年代までジャズは“モダン・ジャズ”として真の黄金期を迎える。 チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、セロニアス・モンク、マイルス・デイビス、バド・パウエル、アート・ブレイキー、アート・ペッパー、クリフォード・ブラウン、ソニー・ロリンズ、オーネット・コールマン、ジョン・コルトレーン、ビル・エバンスといった偉大なジャズマンたちは、みんなこの黄金期に輝かしい録音やステージを残した。 しかし、その美しい音楽の裏側には地獄のような苦悩もあった。夜に生きるジャズマンにとって麻薬や酒に深く溺れることは、至極の創造と表現の代償とでも言うべき“業”だった。モダン・ジャズは間違ってもオシャレなデートやレストラン向けの音楽ではない。モダン・ジャズとは苦悩に満ちた夜の魂から絞り出される音楽のことを言う。 モダン・テナーの顔役であるデクスター・ゴードンも、そんな苦しみの中で紆余曲折しながら足跡を刻み続けた人だった。1923年に生まれ、40年にライオネル・ハンプトン楽団から始まったそのキャリアは、40年代後半にワーデル・グレイと組んだテナー・サックス・バトル・チームで最初の栄光を見る。しかし、デクスターは麻薬に溺れて50年代を棒に振ってしまう。 60年夏、ブルー・ノート・レーベルで奇蹟の復活。ニューヨークへ移るものの、酒類局から麻薬常習を理由にキャバレーカードが支給されず(クラブでの演奏ができない)、62年に仕事と理解を求めてヨーロッパへと渡った。彼は10数年をこの地で過ごしながらブルー・ノートに傑作を次々と録音。76年に帰米を果たす頃には、デクスターは偉大な影響力を持つジャズ界の伝説となっていた。 映画『ラウンド・ミッドナイト』(ROUND MIDNIGHT/1986)は、晩年のデクスター・ゴードンが主演したジャズマンの物語。 ピアニストのバド・パウエルとデザイナーのフランシス・ポードラとの友情を題材にした実話の映画化だったが、アメリカに失望して自由なヨーロッパに活動を求め、アルコール中毒や麻薬の誘惑と闘いながら最期はニューヨークで息を引き取るという内容は、この映画から4年後にこの世を去ったデクスターの人生そのものだった。演技の必要もない。ゆ..
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歌でつながっているアメリカ合衆国で唄いつがれるスティーブン・フォスターの「故郷の人々」

アメリカ合衆国は歌でつながっている国だと言ってもいい。 市や町や地域のコミュニティを構成する人々は多種多様だ。 それぞれのコミュニティにとってのアメリカがあり、そこには人々に必要とされる歌がある。 人々を互いに結びつけてきた歌が、コミュニティで唄いつがれて今日に生きている。 “アメリカ音楽の父”とも称されるスティーブン・フォスターは、1864年1月13日にニューヨークの貧民街で、失意のうちに37歳の若さで亡くなった。 都会での孤独死をみとった者はいなかったという。 だが彼が生前に残した多くの歌は、今もなおその生命を保ち続けている。 「なつかしきケンタッキーの我が家(My Old Kentucky Home)」は、ケンタッキーの州歌としてよく知られている。 “スワニー河”の愛称でも親しまれている「故郷の人々(Old Folks at Home)」は、フロリダ州歌として唄いつがれてきた。 フォスターの歌詞は詩としても成立するほど美しく、音楽的にも自然でメロディーにのせて唄いやすい。 それはほとんどの歌詞を、自ら、が書いていることにも関係するだろう。 たとえば“スワニー河”を作る際には、フォスターは本物の河を見たことがなかったのに、言葉の響きだけで選んだという。 スワニー河は、ジョージア州南部とフロリダ州北部を流れる河だった。 スワニー河へ向かって、遠く、遠く そこは私の心が向かうところ そこは懐かしき仲間達がいるところ アメリカの南部で行われていた大規模な綿花畑(プランテーション)での奴隷生活から逃れ、北部の自由州で生きる黒人達が生まれ育った故郷と子供の頃を、なつかしく思い出す内容だ。 アフリカ大陸から連れて来られた黒人達には、アフリカの大地が故郷だったが、アメリカに生まれた黒人達にとっては、南部の綿花畑が故郷のイメージになったのである。 アイルランド移民の家系に生まれたフォスターは、幼いころに家のメイドによって、黒人教会によく連れて行ってもらっていたという。 そこで聴いた黒人が歌う賛美歌の記憶が、子どもの頃から音楽の根っこにあった。 だからこそ、こうしたテーマの楽曲を生み出せたのであろう。 ブルース・スプリングスティーンは“スワニー河”について、こんなふうに語っている。 素晴らしい歌がたくさんある。 例えば“スワニー河” 誰もが知ってる歌だ。 だが、時が経つに..
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ジョージ・ジョーンズ〜ディランもキースも愛した史上最高のカントリー歌手

人生には様々な試練と直面する機会がある。人は愚かにもそれを繰り返す。あるいは避けられない出来事も用意されている。しかし、逆境を糧にし、どこかにささやかな希望を見い出して、人はそれでも生きて行こうと決意する。カントリーミュージックの世界も例外ではない。 一生いつも何かから逃げ続けているようだった。 自らの人生をそう語ったこともあるジョージ・ジョーンズ。カントリーチャートで150曲以上ものトップ40ヒット、85枚以上ものトップ40アルバム(共に歴代1位)を遺した史上最高のカントリー歌手。 ジョニー・キャッシュやウェイロン・ジェニングス、ボブ・ディランやキース・リチャーズ、リンダ・ロンシュタットやジェームス・テイラーなど、名だたるアーティストからのリスペクトも数知れず。カントリー界のファーストレディ、タミー・ウィネットとの夢のような結婚生活とデュエットソングは伝説に。 その一方で、アルコールや薬物に深く溺れた。その代償として荒んだ生活と辛い離婚も経験。ステージのキャンセルを繰り返し、1980年代半ばには経済的トラブルや病気の影響で体重が40キロ以下にまで落ちて、危うく人生も終わる寸前だった。ジョーンズには上昇と下降のドラマが尽きなかった。 あの頃はひどく落ち込んでいたから、もう元には戻れないだろうと思っていた。チャンスなんてないだろうって。 しかし、そんな私生活があったからこそ、一つの音や歌詞から切ないまでの情感を生み出すことができた彼のパフォーマンスは、特にカントリーバラードでその魅力が発揮され、多くの人々の心を打つことになった。 中でもキャリア最大のヒット曲である「He Stopped Loving Her Today」は、愛し続けた女性を想いながら死んでしまう男の歌で、今やカントリーミュージック屈指のスタンダードナンバーとなっている。 この曲の最も劇的なカバーは、やはり同様に人生の試練を生き続け、どん底のジョーンズを何度も手助けしたこともあった、友人ジョニー・キャッシュによるバージョンだろう。 キャッシュは晩年の作品集『American Recordings』制作過程中、最愛の妻を亡くす。何かせずにはいられないという気持ちで歌を録音し続け、その頃の一つにジョーンズの「He Stopped Loving Her Today」があった。 彼は今日彼女を愛するのを..
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農園で働く男はロバート・ジョンソンの代わりに録音して“マディ・ウォーターズ”になった

それは1941年の8月31日の日曜日のこと──ワシントンDCの国会図書館でフォークソング記録の管理をしていた民俗学者アラン・ロマックスは、朝早く何の予告も抜きでミシシッピ州のストーヴァル・プランテーションに到着した。そして、この農園の監督を見つけてここで働く黒人たちと接触することを伝えた。 ロマックスの目的は、ある男を探し出して録音すること。その男はクラークスデイルから1号線に沿ってミシシッピ川へと扇状に広がる、デルタの細長い区域では有名なブルーズマンだった。裏道には飲み屋がたくさんあり、男の名は知れ渡っていたが、それは限られた世界だけの話だった。 実は当初はロバート・ジョンソンを録音しようと、ロマックスはミシシッピ・デルタに足を踏み入れた。しかし、既に死亡していたことを知り、代わりにロバート・ジョンソンのように弾ける男の存在を知ったのだ。 しばらくすると、農園の食堂にその男がやって来た。仲間の密造酒業者にタレ込まれたのではないかと思った。しかし、ロマックスが持参したギターを見て、そんな心配はなくなった。ウィスキーを飲みながら話していると、男とロマックスの間には信頼感が生まれ、録音機材を一緒に運んでいた。 「俺の名前はマッキンリー・モーガンフィールド。ニックネームは“マディ・ウォーター”。ストーヴァル農園の名高いギター弾きだ」 自己紹介が終わると、マッキンリーはサン・シムズの伴奏で手始めに「Burr Clover Blues」を歌った。“マディ・ウォーター”とは、少年時代によく泥だらけになって遊んでいたので、おばあちゃんがつけた愛称だった。 昼食から夕食の時間まで、椅子に腰深く座った28歳のマッキンリーは木製のギターと歌だけで何曲もレコーディングした。その中にはのちに「I Feel Like Going Home」として知られることになる「Country Blues」も入っていた。 「このブルーズを作ったのはいつ頃だったんだい?」 「俺は1938年にこのブルーズを作った」 「その年のいつ頃?」 「1938年の10月8日頃に作った」 「歌い出した時、自分がどこにいて、どんな風に曲ができたか覚えてないかい?」 ロマックスは数時間過ごした目の前の男の芸術性に完全にノックアウトされていた。確信に満ちたパフォーマンス、巧みな演奏、声とギターの関係すべてに。歌い方には無上の優..
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リロイ・カーを偲んで〜ロバート・ジョンソンにも影響を与えた男の偉大な足跡と功績

1935年4月29日、戦前ブルースの創始者として活躍したリロイ・カー(享年30)がインディアナ州インディアナポリスで死去した。 死因は肝臓病とされている。 アーバンブルース(都会派ブルース)の原点と言えるメランコリックな響きのヴォーカルとピアノは絶大な人気を誇り、あのロバート・ジョンソンにも影響を与えた人物でもある。 ロバート・ジョンソンが一番最初に覚えたブルースが、彼の代表曲「How Long How Long Blues」 だと言われている。 “無冠のブルース女王”という異名を持つアイダ・コックスが歌った「Crow Jane」を下敷にしたと言われているこの楽曲は、リロイ・カーの録音によって1928年にリリースされるやいなや驚異的なヒットを記録した。 当時それほどまでに売れたアメリカ黒人音楽家はリロイ・カーの他にいなかったという。 その“現象”は、黒人を中心としたブルース音楽のマーケットとは縁のない一般の白人音楽リスナーまでも巻き込んだことを意味する。 彼はその後も相棒のギタリスト、スクラッパー・ブラックウェルと共に約160曲を録音している。 名コンビによる定型化したブルーススタイルは、後続のブルースマンたちに決定的な影響を与えた。 人気者として各地を巡業していた彼は、旅先で大好きな酒を飲み過ぎて肝臓を悪くしてたにも関わらず…毎夜、酒びたりの生活を繰り返していたという。 そして1935年4月28日の深夜、出かけたパーティの席で発作を起こし、翌朝帰らぬ人となった。 彼の死後、ロバート・ジョンソンはピアニストである彼の楽曲からヒントを得て「When The Sun Goes Down」をローリング・ストーンズのカヴァーでもお馴染みの「Love In Vain」に改作して1937年にレコーディングしている。 こちらのコラムの「書き手」である佐々木モトアキの音楽活動情報です♪ 宜しくお願い致します。 新作ミニアルバム『You』のタイトルナンバー「You」のミュージックビデオです♪ 「Stay Homeのこの日々に…大切な人、友達、家族を思い浮かべながら聴いて下さい♪」 映像編集、ポートレート(写真)撮影共に、佐々木モトアキ本人が手掛けております。 とてもシンプルな技法ですが、何よりも登場する皆さんの表情が素敵です 人が“目を閉じている”表情。 その“瞼(まぶた)..
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